暮戸駅の北口から出ないでください。
北口から出てはいけない。
転職に伴って引っ越すことになり、通勤経路から逆算して物件を探していた。家賃と乗り換え回数のバランスで暮戸駅の周辺がちょうどよく、不動産サイトでいくつか候補を見繕ったあと、何となく「暮戸駅 住みやすさ」で検索した。まとめサイトや不動産メディアの記事に混じって、古い掲示板のスレッドが引っかかった。区の総合雑談スレで、もう何年も前のログだった。
話題は買い物事情や学区の評判など、よくある地域スレの流れだった。引っ越し先の空気を知りたかっただけで、ざっと流し読みしていた。
スクロールの途中で、場違いな一行に目が留まった。
前後の文脈がまったくなかった。その前の書き込みはスーパーの品揃えの話で、そのあとは数日間の空白を挟んで別の話題に移っていた。返信は一つもついていない。完全にスルーされている。
暮戸駅の構内図を見た。出口は南口と東口の二つだけだった。北口は存在しない。ないものに対して「出ないでください」と書く意味がわからなかった。深夜二時の酔っ払いか、誤爆か。どちらにしても気にするような内容ではない。
私はそのまま不動産サイトに戻り、翌週の内見を予約した。
四月、暮戸に越した。
暮戸駅は各停しか停まらない私鉄の小さな駅で、ホームは一面二線、改札は一つ。数年前に改修されたらしく、構内はそこそこきれいだった。改札を出ると南口と東口の分岐があり、正面は白いタイルの壁になっている。
一ヶ月ほど通勤で使ったが、特に何ということもない駅だった。
掲示板の書き込みのことなど、すっかり忘れていた。
最初に何かを感じたのは、五月の終わりだった。
残業で遅くなり、終電の一本前で暮戸駅に着いた。二十三時四十分。改札を出て、いつもどおり南口に向かう。その途中、足元を冷たい空気が流れた。気のせいだろうと思い、そのまま駅を出た。
六月に入ると、帰りが零時を過ぎることが増えた。風のことが気になり始めたのはそのころだ。
ある夜、改札を出た瞬間、風が吹いた。正面の壁の方向から。六月の湿った夜気とは違う、地下水脈に触れたような、季節のない冷たさだった。
壁の方向から風が来ることに違和感がなかったわけではない。ただ、建物の構造上どこかに通気口があるのだろうと思った。気圧の関係で妙な場所から風が来ることはある。
——その風が吹く日と吹かない日がある、ということに気づいたのは、もう少しあとのことだった。
六月の終わり、ふとあの書き込みを思い出して、掲示板を検索し直した。あの書き込みのあったスレッドはもうDAT落ちしていたが、まとめサイトに転載されたログの中に、関連するやりとりを見つけた。
0時過ぎに改札出ると正面の壁のとこに
なんの話
おまえまだ暮戸いるのかよ
なに急に
知り合い?
いやいい 忘れてくれ
正面見なきゃいいだけだし
ただ風が来るときはわかる 冷たくて変な風
誰か翻訳して
触んな
引っ越せって前にも言ったよな
金がない
てかあそこの不動産屋も東口側の物件もう扱ってないってマジ?
何度か読み返した。
740だけが妙だった。スレ上ではこの二人の絡みは初めてのはずなのに、すでに何かを共有している口ぶりだった。
そして743は、あの風のことを知っていた。
七月四日、金曜日。
残業と飲み会が重なって、暮戸駅に着いたのは零時十二分だった。疲労と酔いでぼんやりしていて、改札を通り、分岐点に立ったとき、正面を見てしまった。
いつも見ない方向を、何の構えもなく、自然に。
壁がなかった。
通路があった。天井の蛍光灯は大半が消えていて、点いているのは三本に一本だけだった。白い光の島が等間隔に浮かび、そのあいだを暗がりが埋めている。十メートルほど先に、小さな案内板が浮かんでいた。
北口
通路の入口の壁面に、パテで埋められたビス穴が四つあった。昼間、壁だったときにも見えていたはずだ。案内板の取り付け跡。昼間は壁に隠されていた案内板が、ビス穴の位置にぴたりと収まっている。
通路は完全に静かだった。空調の音もない。あるのは風だけだ。奥から手前に向かって、冷たく、一定の速さで吹いている。
呼吸みたいだと思った。
何かが、奥で、息をしている。
足が動かなかった。恐怖とも違う。恐怖が来る前の、もっと手前の反応だった。感情がまだ追いついていなかった。数秒なのか数十秒なのかわからない時間が過ぎてから、南口へ走った。駅を出て、コンビニの前まで走った。振り返ると、駅舎はいつもどおり静かだった。
翌日の昼、駅に行った。正面は壁だった。タイルの壁。ビス穴。壁に耳を近づけると、かすかに空気が動いている音がする。壁の向こうに空間がある。昼間でも、それはそこにある。ただ開いていないだけだ。
その週末、また掲示板を漁った。まとめサイトのキャッシュを辿り、別のスレッドのログからもう一つ見つけた。
今日改札出たら出てた
近くにいた女の人にすみません北口ってどっちですかって聞かれた
北口はないですよって答えたらスマホ見せてきて
乗り換えアプリに北口って出てた
マジで出てた スクショ撮りたかったけどさすがに無理だった
南口から出てくださいって言って別れた
いい加減専スレ立てろよ
すまん
あと一個だけ
あの通路の中に人影見えた 三人いた
奥に向かって歩いてた 全員こっちに背中向けてた
全員スーツだった
普通に帰宅してるサラリーマンにしか見えなかった
逆にそれが一番怖い
アプリに出る人と出ない人がいるって聞いたことある
出る人はもう向こうに引き寄せられてるらしい
引き寄せるってなに
ここでも話は流されている。だが105の一文が引っかかった。
「普通に帰宅してるサラリーマンにしか見えなかった」。
八月。
回覧板が回ってきた。暮戸駅周辺で行方不明者が出たという。三十代男性、会社員。終電で暮戸駅に到着したことが改札の防犯カメラで確認されたが、その後の足取りがつかめていない。記事にはそう書かれていた。
南口にも東口にも、防犯カメラはある。
その週、不動産サイトで暮戸駅周辺の物件を検索してみた。南口側はいくつもヒットする。だが東口側は、ほとんど出てこない。あるにはあるが、どれも隣の駅からの距離で掲載されていた。
不動産屋に行った。物件を紹介してくれた担当者はもう辞めていたが、受付の年配の女性が対応してくれた。暮戸で生まれ育ったという。
「暮戸駅って、昔から出口は二つだけですか」
女性は数秒、こちらを見たまま何かを測るような顔をした。それから「見ましたか」と言った。
私は答えなかった。
「昔は駅員さんがいて、終電のあとは構内に人を残さなかったんですよ」
それだけだった。帰り際に「南口をお使いになってください」と言われた。
九月。
転職サイトに登録した。
暮戸から離れたかった。駅だけの問題ではない、と自分に言い聞かせた。都心に近い場所に住みたい、通勤を短くしたい。理由はいくらでもつけられた。毎晩、帰り道のたびに正面の壁を意識する生活が続いていた。見なければいい。見なければないのと同じ。だが目を逸らしている時点で、そこに何かがあると認めているのと同じだった。
十月には内定が出た。勤務先が変わるので通勤経路も変わる。新しい路線の、新しい駅の近くに部屋を決めた。暮戸から電車で一時間以上離れた街だ。
荷造りの最後の夜、もう一度あの掲示板を検索した。ほとんど儀式のような気持ちだった。
同じスレッドの末尾近く、もう誰も読まないような場所に、一行だけの書き込みがあった。
返信はなかった。
引っ越し先の駅は、急行も停まる大きなターミナル駅だった。出口は五つ。南口、東口、西口、中央口、北口。五つとも正式な出口だ。構内図にも載っている。Googleマップにも出る。毎日何千人もの人が使っている。
何も問題はない。何もおかしくない。
暮戸では、北口がなかった。なかったから、深夜に壁が消えて通路が現れたとき、異常だと気づけた。存在しないものが現れるのだから、それがおかしいことは誰にでもわかる。
だがもし、最初から北口がある駅だったらどうなる。
正しい北口と、「あちら側」の北口が、同じ場所に、同じ名前で、同じ見た目で重なっていたら。毎朝北口から出ている何千人かの通勤客のうち、何人かがときどき——ほんの何人かが——正規のものではないほうの北口から出ていたとしても、誰がそれに気づく。
本人すら気づかないのではないか。改札を出て、北口の階段を上って、外の空気を吸って——出たつもりで——
私は震える指で検索を続けた。引っ越し先の駅名ではなく、思いつくままに駅名を入れた。
「柿ノ木台駅 北口」。
見つからない。
「東船田駅 北口」。
見つからない。
「梅ヶ浜駅 北口」。
見つかった
地域の過疎スレッド。雑談の中に埋もれた、返信のない一行。
別の駅名を入れた。
「宮前野駅 北口」
「藤代台駅 北口」
全部同じだった。深夜の、返信のない、たった一行の書き込み。——別々の人間が、同じ警告を残している。
そしてその書き込みは、どこでも同じ扱いを受けている。誰にも拾われず、返信もつかず、スレッドの底に埋もれていく。スーパーの安売り情報と学区の評判のあいだに、ひっそりと。
私はスマートフォンを伏せた。
部屋は静かだった。段ボールの山。窓の外は暗い。
最寄り駅の構内図が、瞼の裏にちらつく。
五つの出口。南口。東口。西口。中央口。
そして、北口。
あの北口が、正しい北口だという保証は——どこにもない。
——暮戸駅の北口から出ないでください。
それは、暮戸駅に限った話ではありません。
(了)
あなたの最寄り駅に、
北口はありますか。
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駅出口データ: © OpenStreetMap contributors (ODbL)